「退職金で投資はやめとけ」。ネットにも、職場の先輩からも、この忠告は聞こえてくる。一方で「退職金を預金に置くだけでは老後資金が足りない」という警告もある。

どちらが正しいのか。答えは「どちらも正しい。ただし対象が違う」だ。退職金2,000万円を全額株式に一括投資した人と、500万円を5年かけて分散投資した人では、結果が根本的に異なる。

「やめとけ」と言われる理由は何か?

「退職金で投資はやめとけ」の根拠は3つある。いずれも正当な理由だ。

理由1: 取り返しがきかない資金だから。退職金は人生で1回きり。30代の給与なら損失を取り戻す時間があるが、60歳で2,000万円を失ったら、働いて取り返すのは現実的に不可能だ。

理由2: 投資経験がない人が突然始めるから。厚生労働省の統計によると、退職金の平均額は大卒・勤続35年以上で2,048万円。多くの人にとって、人生で初めて手にする「まとまった資金」だ。投資経験ゼロの人がいきなり2,000万円を動かすのは、免許取りたてで高速道路に合流するようなものだ。

理由3: 金融機関の営業ターゲットにされるから。退職金が入金されると、銀行から「資産運用のご相談」の電話が来る。銀行が売りたい商品は手数料が高い商品であり、顧客にとって最適な商品ではない。

ここまでで分かったこと
  • 「やめとけ」の3大理由: 取返し不可・未経験・営業ターゲット
  • 3つとも正当な理由。ただし「全額投資」前提の話

「やめとけ」が間違っているケースはあるか?

ある。「投資すること自体」が問題なのではなく、「投資の仕方」が問題なのだ。

退職金投資とは、退職一時金の一部を金融商品で運用し、インフレによる資産価値の低下を防ぎながら老後の生活資金を確保する行為だ。全額を投機的な商品に投入する行為とは本質的に異なる。

Aさん(62歳・メーカー退職・退職金2,200万円)は、「やめとけ」を信じて全額を普通預金に入れた。5年後、インフレで物価が8%上昇。2,200万円の購買力は実質約2,030万円に低下した。何もしなくても170万円分の価値を失った計算だ。

一方、Bさん(61歳・商社退職・退職金2,000万円)は、600万円を定期預金、600万円を個人向け国債、800万円をバランス型インデックスファンドに分散。5年後、投信部分は年平均3.5%で成長し、資産全体は約2,200万円になった。

投資しなかった場合 vs 分散投資した場合(5年後)

項目Aさん(全額預金)Bさん(分散投資)
退職金2,200万円2,000万円
5年後の名目資産約2,210万円約2,200万円
5年後の実質購買力約2,030万円約2,020万円
利息・運用益約10万円約200万円
元本割れリスクなし(名目上)低い(分散効果)
ここまでで分かったこと
  • 「何もしない」もインフレリスクを取っている
  • 分散投資なら元本割れリスクを抑えつつインフレに対抗できる

投資すべき人・すべきでない人の境界線は?

境界線は5つの条件で判定できる。すべて「Yes」なら投資すべき。1つでも「No」があるなら慎重に。

退職金投資の適性チェック5条件

条件内容判定基準
1. 生活防衛資金生活費2年分の現金がある月25万円×24ヶ月=600万円以上
2. 年金カバー率公的年金で基本生活費をカバー年金月額 ≧ 生活費の70%
3. 余裕資金の有無5年以上使わない資金がある退職金 − 生活防衛資金 > 0
4. 投資経験少額でも投資経験があるNISA・iDeCo等の経験
5. 心理的耐性30%の含み損に耐えられる1,000万円投資 → 700万円でも売らない

当メディアの試算(国税庁・厚労省統計に基づく決定論的計算)によると、厚生年金の平均受給額は月約14.5万円。夫婦の基本生活費を月25万円とすると、年金カバー率は約58%。不足分の月10.5万円×30年=3,780万円を退職金と貯蓄でまかなう必要がある。

退職金2,000万円だけでは3,780万円に1,780万円足りない。この不足分を埋めるために、退職金の一部を年利2〜3%で運用する選択は合理的だ。

ここまでで分かったこと
  • 5つの条件すべてYesなら投資すべき側
  • 年金だけでは老後資金が不足する場合、運用は必要経費

「やめとけ」と言える人の条件は?

逆に「やめとけ」が正しいのは、以下のケースだ。

ケース1: 退職金が生活費そのものの場合。退職金1,000万円・貯蓄なし・年金月10万円という状況なら、全額を生活費に充てるべきだ。投資に回す余裕資金がない。

ケース2: 投資経験ゼロ+一括投資しようとしている場合。経験ゼロの人が2,000万円を一度に投入するのは、確率的に失敗する。まず50万円で1年間の練習期間を設けるべきだ。

ケース3: 借金がある場合。住宅ローン残高が1,000万円以上ある場合、投資よりも繰上返済の方が確実にリターンが高い。住宅ローン金利1.5%の繰上返済は「確定利回り1.5%の投資」と同じだ。

Cさん(63歳・中小企業退職・退職金800万円)は、退職金800万円に対して住宅ローン残高が600万円あった。退職金で投資を始めるか迷ったが、まず住宅ローンを完済。残り200万円を生活防衛資金として定期預金に入れた。「投資はしなかったが、毎月のローン返済がなくなったことで年金だけで生活できるようになった」とCさんは語る。

ここまでで分かったこと
  • 退職金 ≦ 生活費+借金なら投資は不要
  • 住宅ローン繰上返済は確定利回りの「投資」

「やめとけ」を乗り越えるための3ステップ

5つの条件をクリアした人が、安全に投資を始めるための手順は以下の3ステップだ。

ステップ1: 1ヶ月間は何もしない。退職金が入金されたら、1ヶ月間は一切の投資行動をしない。銀行からの電話は断る。この1ヶ月で情報収集と比較検討を行う。

ステップ2: 生活防衛資金を分離する。生活費2年分(目安600万円)を定期預金に移す。この資金は絶対に投資に回さない。

ステップ3: 残りの50%を6ヶ月かけて分散投資する。一括投資ではなく、毎月均等に買い付ける。1,000万円を投資するなら、毎月約167万円を6回に分けて購入する。

退職金2,000万円の安全な投資開始ステップ

期間アクション金額
入金〜1ヶ月何もしない(情報収集のみ)0円
1ヶ月目定期預金に生活防衛資金を移動600万円
1ヶ月目個人向け国債を購入400万円
2〜7ヶ月目毎月バランス型投信を購入月167万円×6回=1,000万円
ここまでで分かったこと
  • 1ヶ月は何もしない → 生活防衛資金を分離 → 6ヶ月で分散投資
  • 一括投資ではなく時間分散が退職金投資の鉄則

まとめ

「退職金で投資はやめとけ」は、正確に言い換えるとこうだ。「退職金を全額、一括で、経験もなく、銀行に言われるまま投資するのはやめとけ」。

投資すべきかどうかは、5つの条件で決まる。条件を満たすなら投資しない方がリスクだ。年率1.5%のインフレは、20年で退職金の実質価値を約300万円削り取る。

投資するなら、3ステップを守ること。1ヶ月待ち、生活防衛資金を分離し、6ヶ月かけて分散投資する。この手順を踏めば、「やめとけ」と言われる失敗パターンには陥らない。